多数の先住国家と文化圏
現在の米国領域には、独自の言語、政治、交易網、農耕、漁労、狩猟、都市や村落を持つ多数の先住民族・国家が存在していました。先住民族史はヨーロッパ人到来から始まるものではありません。
植民地化以前から現代まで、米国における先住民族・先住国家と連邦政府、州、入植社会との関係を形作った主要な出来事を時系列でたどります。
現在の米国領域には、独自の言語、政治、交易網、農耕、漁労、狩猟、都市や村落を持つ多数の先住民族・国家が存在していました。先住民族史はヨーロッパ人到来から始まるものではありません。
大西洋世界の接触が本格化し、天然痘などの感染症、交易、戦争、奴隷化、宣教が各地の社会に大きな変化をもたらしました。影響の時期と規模は地域ごとに異なります。
イングランド人がチェサピーク湾地域にジェームズタウンを建設。ポウハタン連合との交易と衝突が続き、土地・食料・主権をめぐる緊張が高まりました。
イングランド人入植者がプリマスに到着。ワンパノアグは外交・交易関係を結びましたが、その後の入植拡大は土地喪失と対立を深めました。
ニューイングランドでピクォートとイングランド植民地勢力・同盟先住民が衝突。虐殺、捕虜化、奴隷化によってピクォート社会は甚大な打撃を受けました。
ワンパノアグの指導者メタコメットらとニューイングランド植民地の戦争。双方に大きな犠牲が出て、地域の先住民族は土地・人口・政治的自立を大きく失いました。
プエブロ諸民族がスペインの支配と宗教弾圧に対して蜂起し、ニューメキシコからスペイン勢力を一時退けました。北米先住民族による大規模な反植民地抵抗の代表例です。
北米における英仏戦争に、多くの先住国家がそれぞれの外交判断で参加しました。戦後、英国の影響力が増す一方、入植圧力も強まりました。
英国はアパラチア山脈以西への入植を制限する王室宣言を出しました。同時期、多数の先住国家が英国の軍事拠点と政策に抵抗しました。
独立戦争期の大陸会議は、先住国家との外交を扱う委員会を設置しました。米国成立当初から、先住国家は外交・軍事・領土政策の重要な相手でした。
先住国家は一枚岩ではなく、英国側、米国側、中立など異なる選択をしました。戦後の米国拡張により、多くの共同体が新たな土地圧力に直面しました。
憲法は「インディアン部族との通商」を連邦議会の権限とし、先住国家を州や外国とは異なる政治主体として扱う枠組みを形成しました。
連邦政府の承認なしに先住民土地を取得することを禁じ、交易を規制しました。しかし違法な土地取得や入植はその後も続きました。
米国は広大な領域をフランスから取得しましたが、そこには多数の先住国家が暮らしていました。米国の西方拡張と探検、軍事・交易活動が加速しました。
テカムセとテンスクワタワが進めた先住国家連合の運動に対し、米軍がプロフェッツタウンを攻撃。土地割譲への抵抗は米英戦争期にも続きました。
多くの先住国家が米国拡張を抑えるため英国側と連携しました。1813年のテカムセ戦死後、五大湖・旧北西部における先住側の軍事的抵抗力は大きく弱まりました。
連邦資金が宣教学校などに提供され、先住民の子どもを欧米的生活様式へ同化させる教育政策が制度化されていきました。後の寄宿学校制度につながります。
陸軍省内にインディアン問題を扱う機関が置かれ、後のインディアン局(BIA)へ発展しました。
大統領にミシシッピ川東部の先住国家との移住協定を進める権限を与えました。南東部を中心に大規模な土地喪失と西方への強制移住を引き起こしました。
連邦最高裁はチェロキー・ネーションを「国内従属国家」と表現しました。部族主権と連邦政府の信託責任をめぐる法理に長期的な影響を与えました。
最高裁はジョージア州法をチェロキー領内に適用できないと判断しましたが、強制移住を止めることはできませんでした。
チェロキー多数派の承認を得ない少数派が移住条約に署名。米国政府はこれを強制移住の根拠として用いました。
米軍監督下で約1万6千人のチェロキーがインディアン準州へ追放され、多数が病気、飢え、寒さで死亡しました。ほかの南東部諸民族も同時期に移住を強いられました。
人口流入、鉱山開発、民兵活動、強制労働、飢餓、疫病により、カリフォルニアの先住民族は壊滅的な人口減少と土地喪失を経験しました。
連邦政府は西部の先住民族を限定された土地へ集約する政策を強化しました。同年の第一次ララミー砦条約は北部平原の領域と通行をめぐる取り決めを行いました。
未払い年金、飢餓、土地喪失を背景にミネソタでダコタと米国が衝突。戦後、38人が一度に処刑され、多くのダコタが収容・追放されました。
米軍は1万人を超えるディネをボスケ・レドンドへ強制移動させました。飢餓、病気、劣悪な環境が続きました。
コロラド準州民兵が和平を求めていたシャイアンとアラパホの野営地を攻撃し、多数の女性、子ども、高齢者を含む人々を殺害しました。
ララミー砦条約はグレート・スー・リザベーションとブラックヒルズを確認。ナバホ条約はディネの故地帰還を認めましたが、後に条約違反や領土侵害が続きました。
議会は先住国家との新規条約締結を停止しました。既存条約は存続しましたが、連邦政府が議会立法で政策を進める傾向が強まりました。
ラコタ、北部シャイアン、アラパホの戦士がカスター隊を破りました。その後、米軍の圧力はさらに強まり、ブラックヒルズの奪取が進みました。
故地からの移住を拒んだニミープーの一部が約1,900キロに及ぶ退却を続けましたが、カナダ国境近くで降伏しました。
「インディアンを殺して人を救う」という思想のもと、子どもを家族から離し、言語・髪型・衣服・宗教を変えさせる同化教育のモデルとなりました。
共同所有の部族土地を個人区画に分割し、「余剰地」を非先住民へ開放しました。1887年から1934年までに部族土地は大幅に減少しました。
米第7騎兵隊がサウスダコタでラコタの一団を包囲し、女性や子どもを含む多数を殺害しました。平原戦争期の象徴的事件となりました。
土地割当を受けた先住民の法的地位と土地管理を連邦政府がさらに統制し、土地喪失を促進しました。
米国内で生まれた先住民に米国市民権を認めました。ただし、州法による投票制限はその後も一部で続き、部族市民権が失われたわけでもありません。
連邦政策下の貧困、医療不足、寄宿学校の問題を批判し、同化中心政策の見直しに影響を与えました。
土地割当政策を終了し、部族政府の再組織や土地回復を支援しました。ただし、制度設計が外部から押し付けられたとの批判もあります。
部族主権、条約権、差別撤廃を全国レベルで訴える組織が設立されました。
過去の土地収奪に対する金銭補償請求の制度が作られましたが、土地そのものの返還ではなく金銭解決が中心でした。
連邦政府は一部部族との政府間関係を「終結」し、州の司法権を拡大しました。多くの部族が土地、行政、サービス基盤を失いました。
先住民を居留地から都市へ移す職業訓練・移転政策が進められました。都市先住民共同体の形成につながる一方、文化・家族・故地との断絶も生みました。
インディアン公民権法が制定され、同年ミネアポリスでアメリカン・インディアン運動(AIM)が結成。警察暴力、条約違反、主権問題を訴えました。
「Indians of All Tribes」が19か月にわたり島を占拠し、終結政策、土地収奪、文化抑圧への抗議を全国に可視化しました。
終結政策を明確に否定し、部族が自らの事業と社会を運営する「自己決定」を連邦政策の方向として示しました。
全米各地の先住活動家がワシントンD.C.へ向かい、条約履行と主権尊重を要求。BIA本部占拠へ発展しました。
AIMとオグララ・ラコタの活動家らが71日間占拠し、部族政治、条約、連邦政策への抗議を行いました。
部族政府が連邦事業を契約・運営できる仕組みを拡大し、教育、医療、行政における自己決定を強化しました。
アメリカ先住民宗教自由法が伝統宗教の保護を掲げ、ICWAは先住児童の養子・里親措置で部族と家族の結び付きを重視しました。
部族ゲーミングの連邦的枠組みを定めました。部族ごとに事情は異なりますが、行政、教育、医療、文化事業の財源となった例もあります。
博物館や連邦機関に対し、先住民の遺骨、葬送品、聖具、文化的に重要な物品の目録化と返還手続きを義務付けました。
個人先住民信託口座の管理不備をめぐる集団訴訟が和解し、補償と土地持分統合の枠組みが設けられました。
ダコタ・アクセス・パイプラインに対し、スタンディングロック・スー族と各地の先住民・支援者が水、条約、聖地の保護を訴えました。
最高裁は、議会が明確に廃止していないため、マスコギー(クリーク)・ネーションの居留地が連邦刑法上存続すると判断しました。
ラグナ・プエブロ出身のデブ・ハーランドが、米国史上初の先住民閣僚として内務長官に就任しました。
内務省が寄宿学校制度の包括調査を開始。2022年の第1巻報告は、1819年から1969年までの連邦寄宿学校制度と墓地の存在を報告しました。
現在の先住国家は、政府、裁判所、学校、医療、経済事業、言語復興、文化財返還、環境保護を担っています。歴史は喪失だけではなく、生存、抵抗、再生、自治の継続でもあります。
年表は、米国内務省インディアン局、国立公園局、国立公文書記録管理局、スミソニアン国立アメリカ・インディアン博物館、米国最高裁判所などの公開資料を基礎に編集しています。